「米やんすら知らん奴がコミケに来るな」は許されるのか問d

 こないだのもそうなんですけども、記事タイトルのはですね、俺がそう言いたいわけではなくて、実際に目撃したわけでもなくて、ネットで「『匿名掲示板でそういうことを言ったオタクがいたらしいよ』と笑っているオタクたち」という光景を見かけただけのことなので、だから、あれでガイナックスエヴァを選んだ理由は、俺には別に無いのです。まぁ、考えてみれば、「もはや『今』ではないけど『古い』と言うには新しいムーブメント」と言う点で絶妙のチョイスではあったわけですけども。ていうかその絶妙さがあったからこそ、その話をしていた人たちもそのことを記憶していて、俺もその話に興味を引かれたのだろうけどね。
 でも前回自分で記事書いてるときはそこまで考えてなかったって言うか、そんなことまで考えて書いてる・考えようとして書き始めた記事ではなかったのでなー。気安いなじみのオタク友達との会話の中で始める軽いオタ会話的な、そんなノリだったので。はてなブックマーク被ブックマーク数ががしがし増えていくのを見ながら汗だらだらになるのも無理からぬところですわな。


 あ、ちなみに俺コミケには行ったこともない人間なので、今回の記事タイトルのチョイスも、別に米澤氏やコミケやその参加者に対して特に何か思うとこがあってというわけじゃあないですよ。


 ところでさー、前回はなんか考えが広がらなくて途中で書くの止めちゃったんだけど。

  • 中高一貫校の中学でオタク系の同好会に入ったとき、すぐ上の先輩は高校2年生だった。中間の学年が見事にない。
    • 高校2年の秋に部活動を引退する慣行だったので、もし俺らの学年で誰も入らなかったら廃部だったらしい。結局、俺も含めて3人入部して存続。それが良い事だったのかは、いまでも何とも言えない。
    • 元々はテーブルトークRPGで遊ぶために作られた同好会だったらしいが、先輩が半年で引退して同好会内での文化継承は途絶えた。
      • なので俺の中では、自分たちがTRPGを知らない最初の世代なのだという「今と昔の断絶の意識」が今もある。
      • 中間層が居ないから極端な進行だったけど、実際にはもうちょっと前の人たちでTRPGは衰退が始まってたのだろうな。
    • 当時はまだ富士見書房がマギウスを売り出していたが、そのとき絶頂だった富士見を持ってしても、目に見えて下火だった。
      • 天地無用!』のリプレイを何冊か買ったけど、あくまで『天地無用!』グッズだったからであって、マギウスに興味はなかった。
      • 結局マギウスは消えたようだが、『ドラゴンマガジン』には今TRPGの連載企画があるのだよな。
    • 俺らの学年でオタク仲間が集まってそこそこにぎわったからか、高校になってから一つ下の学年で人が集まった。
    • ところが、この下の学年と俺らの学年がまた恐ろしいくらい交流無し。3年近く一学年だけでやってたから、他学年との接し方がもう分からない。なにより、オタク的な共通の話題がない。
    • 彼らはまさに今のオタクと同じように、行動力があり、流行を追い求めてた。
      • だから俺の中では、ここにもまた「今と昔の断絶の意識」が今もある。今度は自分らが「昔」になったわけだ。
      • 実際には、別に彼らが特別だったわけではななく、俺の学年がダラけてただけなのだけどもな。
      • 皆がそれぞれ少しずつ違う領域に軸足置いたオタクだったから、同じような人間同士で集まる楽しさはあったけど、その中で互いに競ったりつるんだりして流行とか追いかけるオタク的研鑽の情熱は発生しなかったのだよね。
        • 別にそれで後悔してるわけでもないけどな。

 かつていたオタクコミュニティにおいて、自分が上の世代の持っていたものをなにひとつ引き継がなかった・引き継ごうとしなかったこと、下の世代とのコミュニケーションを最初から放棄してしまっていたことの罪悪感って俺の中で今も小さくなくて、だからたぶん余計に、世代間コミュニケーションってことについて興味を持っているのだけど、その後なにか他のコミュニティに属したことが無いので、そういったことに対して考えを膨らませるだけの体験が悲しいまでに無いのだよな俺。びっくりするくらい交じり合うことのない空気、一緒の場にいることの気まずさ・居心地の悪さ、カテゴリとしては同じジャンルのオタクであるはずなのにそれぞれまったく別の文化圏で生活してしまっていることの驚きと寂しさっていう、「すれ違い」までは分かるんだけど、そこから先が、ねぇ。うぅむ。
 どうなのだろうなぁ。断絶してるって意識はある。まぁこれは、ネット見ててもすぐ分かるじゃない。自分が全然知らない昔のことを普通に語られている光景とか、自分の方は当然みんな知っていると思って話してたら相手に全然通じてないとか。
 その先はどうなのだろうな。そう言う状態からの摩擦を生みつつの交流と、(互いにせよ一方的にせよ)受け入れあっての最終的な和解、というか、なんんかそういうの。あるのかな。どうなのか。例えば大学のアニメ同好サークルとか、内部はどういう感じなのだろう。グループで分かれしまって事実上分裂しているも同然だったりするものなのか、それでいいじゃないと皆納得ずくの上で単にオタ生活場所確保とかの都合で1サークルとしてつるむのか、いやそれじゃいかんのだと意識して互いにいろいろ紹介しあったりするところがあるのか、OBOGが講義に来てみたりしているのか。


 ていうかな。なんか、こういうこと書いてると、なんか俺のオタク人生ってどんだけ貧しかったんだろうって言う気になってしまって、あれだな。いや全面的に後悔してると言うわけではないけど。色々楽しいこともあったし、色々いい経験が出来たとも思ってるし、いい仲間とも出会えた。でも、もっと別な道だってあって、そっちはもっと良い体験が待ってたんじゃないのかなぁなんていう、ね。特に俺の場合、オタク友達との出会いは中高時代で始まって終わってるので、大学に入ってからがなー。あそこで、「中高生のときには仲間内で楽しんだから、大学は一人でオタクやろう」とか思ったのは、果たして正しかったのかどうなのか。いや間違っていたとは言わないけどもな。けども、なぁ。一人になるのはいつでもできるのだから、他と接触を持てるうちには何かしら持つべきだったのかもしれないよな。「自分で好きなことだけやっていたい」のと「一人でいること」のは、同じようで違う。のかも。な。俺には分からないや。