人格

 昨日のエントリーを何気なく見返していて、ひとつ思い出したことがある。ゲームではなくアニメ、それもあの『ドラえもん』の劇場作品である。


Wikipedia : のび太のねじ巻き都市冒険記
 まぁ、ここを見てもらえば手っ取り早い。取り上げたいのは、この作品の登場人物の内、熊虎鬼五郎とホクロ。鬼五郎はドラえもんの道具を使って自分のコピーを何人も生み出しおもちゃの街をのっとろうとするのだけれども、そのコピーを作っている機械の不調だかなんだかで(詳しい内容は忘れてしまった)、一人だけ、鬼五郎と同じ容姿でありながら優しい心を持ったホクロが生まれてしまう。
 さて、物語の最後、ドラえもんに捕らえられた鬼五郎たちはホクロとともに再び一人の人間に統合されるのだが、その統合の結果出てくる鬼五郎は、なんとホクロの人格を受け継いだ善人だったのである。彼は刑に服すべく警察に出頭をして話はめでたく終わるのであるが、さて、これは本当にめでたいか? 物語の中で、鬼五郎たちとホクロは、まったくの別の人格として動いていたのである。それが、一人に統合されたらホクロの人格になってしまった。では、あの鬼五郎の人格はどこに行ったのだ。
 性格などというのは一面的なものではなく、だから善人のホクロの人格も、悪人の鬼五郎の人格も同じものだ、と言えばそのとおりかもしれない。現に、オリジナルは同じ鬼五郎なのだ。でも、いくら元は一人の人間とは言え、コピーはコピーとして別の人間として動いていたではないか。それをまた一人の人間として統合してしまうのは、果たして正しい処置なのか。


 ドラえもんという作品への興味が完全に失せ、ことに劇場用長編作品に対しては見てもいないのに嫌悪感まで抱くようになったのはこれがきっかけである。製作者には製作者の「クローンの人格権」というものに対するか考えがあったのだろう。しかし個人的に、この作品で示されたその考えは到底受け入れられるものではなかった。何度考えても、鬼五郎はていよく抹殺されてしまったようにしか見えないし、それはつまり人殺しなのではないかという思いが拭えない。
 これが、もっと高い年齢層に対する作品であるならばまだ「クローンについて考えるきっかけとなりうる作品」と好意的に取れたのだろうが、何と言っても『ドラえもん』である。ファミリー向け作品の代表である。その「ファミリー向け作品で、こんな話を書いてしまうのか……」という暗澹たる思いと、同時に、「一人こんなことを考えている自分こそ頭がどうかしているんじゃないか」という苦悩は、大きかった。


 とか書いてみたんだけど、ただでさえ悪い頭を頭痛のときに使うのは良くないなと実感した吉宗であったかもしれない。頭痛薬飲んでおこう……。