「地雷をスルーした」の罠

 買い物日記になって久しいダイアリーですけども、たまの時間のあるうちに何かちゃんとしたエントリーのひとつも書かにゃ、というわけで。


 インターネットでさまざまな情報が手軽に行きかうようになって、例えばゲームの場合だと、「クソゲーって聞いてスルーしたわー」みたいな話、よく聞きますね。まぁ、本当に最初から買う気があったんだかどうか、みたいのも多いですけど、自分自身に照らし合わせても、他のユーザーの意見を見聞きして、ちょっと興味を持ってたけどやっぱり手を出すのはやめた、ということは、誰しもあるんじゃないかと思います。そういうとき、大抵「買う前に分かってよかった」というリアクションが取られますね。そりゃ金のなる木を持ってるんでもなければ、無駄に金を使うのを回避できれば、それは大変に結構なことで。
 ただね。これ、ひとつ大きな落とし穴があるんですね。


 買わなかったという判断はね、これはいいんです。その人が自分のお金をどう使うかを自分で判断したわけで、それは結構なことなんです。問題はですね、その判断に対する評価なんです。
 「面白くないらしい」という話を聞いて、買うのを止めたわけです。手を出さなかったわけです。と、すると。果たしてその「面白くないらしい」という話は本当だったのか、他の人にとっては面白くないのが本当だとしても、果たしてそれが自分にとっても同じだったのか、結局それは分からないままなんですね。
 「面白くないという話を聞いて、買うのを止めた」と似たような行動に「面白いって話を聞いて、興味を持って買った」というのがありますけど、これとは決定的に違います。興味を持って買っている場合は、その買ったゲームを遊ぶことで、その判断が正しかったのか、それとも間違っていたのか、ちゃんと結果が分かるんです。ところが、買ってない場合には、その判断の是非が検証されないままなんです。確かめる方法はただひとつ、そのゲームを遊ぶことなので。それを避けている以上、その判断はあくまでも「避けられた可能性が高い」の域を出ないんです。


 落とし穴って言うか、落ち着いて考えればすぐ分かることなんですけども、意外と見落とされがちではないだろうかと、前々から気にかかっていて、せっかくなので、記事にしてみました。


 ちなみに、ここにもうひとつ重要な問題があるわけですけども、と言うのは、これ、何の経験もしていない。
 それの何が問題なのか分からないって人は、まぁ、それでいいと思うので、そのまま分からなくても大丈夫です。ただね。経験しないとね。眼は養われませんのでね。成功にしても失敗にしても、自分の判断に対する結果を受けて、その積み重ねで、眼が養われるもので、「成功、だったと思う」じゃ、それは経験とは呼べない。そして、自分で判断するための眼が養われないと、いつまでも他の人の話に左右されるだけにしかならない。自分で選べない人は、他の人に選んでもらったものしか、手に入れられない。あらかじめ選んでもらったものの中からしか、選び取ることができない。
 それは、そうしたいのなら、いいんですよ。ゲームとか、趣味のことですから、そのくらいでいいのなら、それで別にいいんです。ただね。仮にも自分をオタクとかゲーマーとか名乗るくせにね、そういうレベルの行動しかとらない人たちはね、ちょっと、と。経験も知識も浅くて、これからそれらをどんどん取り込もうという気持ちもないような人たちの、どの辺にオタクと呼びうる要素を見出すものなのか、俺にはちょっと分からないです。
 いや、最近なんか、アニメオタクを名乗るくせにアニメを見た以外のことにばかり執心してる人とか、ゲームオタク・ゲーマーを自称するくせにゲームを遊んだ以外の話にばかり夢中になってる人とか、インターネットでよく見かけるような気がしてね。しかもそういう人に限って、自分はコアなオタクである、本当のゲーマーである、みたいに言っている光景が、ちらちらと目に入ってくることが多いような気がしてね。一番肝心なところが抜け落ちてるんじゃないかしら、と。