IT media : 「Blogがすべてだった」――20歳ガングロ社長の“ギャル革命”


 中学・高校と男子校に通っていたので、実はこの年代の女の人と接したことがなく、いわゆるコギャルやガングロというのも、メディアによってイメージ付けられた形でしか知らなかったんであるが、ふむ。勿論、みんながみんなこんな人ではなかろうけども、でも逆に言えば、いろんな人がいてそれは当然なわけで、ギャルやらガングロやらいったいかにも分かりやすそうなキーワードで括って済ませようとする態度のなんと愚かしいことかと実感するわけである。


 キーワード化というのは、長々とした説明調の文書を省くプロセスではあり、つまりそれは便利ではあるのだが、同時に、そのキーワードによってなんでも十把一絡げにして済ませてしまう思考停止も招きかねない危険な側面もあって、例えば『新世紀エヴァンゲリオン』以降あらゆるところに出没する、なんでもかんでも「エヴァ系」と称してみるような。あとは、そう、セカイ系とか。最初の内は長く詳しい説明が別にあったのだろう。しかし何かにつけてそんな長いことを書いてはいられないので短くまとめるわけだが、元から意味を知っているのでもない限りその短縮された単語からは元の長い説明を逆算できない上に、語の使用の場が広がるうちに段々と意味がぼやけてくる。となると、みんな自分に都合のよさそうな解釈ばかりをその場その場で採用するようになり、最終的には「なんだかよく分からないもの」に対する理解の拒絶の免罪符として便利な使われ方をするようになる。あれもエヴァ系、これもエヴァ系。意味のあるものとして共通性を見出したのなら、それを具体的に示し、論じればいいのだ。
 怖いのは、短くまとまっているほうが文章としてもすっきりするし、書き手の理解も深いようにも見せられ、そしてまた書き手自身も自分が全て分かっているかのような勘違いに浸れるてしまうこと。そのために乱用されがちで、しかし必ずしも書き手・読み手全員が同じ精度でその単語を理解してはいないものだから、うっかりすると話が噛み合わなくなり、その単語の解釈にばかり振り回されて議論が荒れ、元々書き手が言わんとしていた肝心の部分がどこかにいってしまう。このブログはゲームの話が多いのでその方面を例にとれば、「ゲーム性」だとか「自由度」だとかいう単語。ゲームの批評や感想なんかではよく使われる単語だが、しかし「自由度がある」と言われても何のこっちゃ分からない。ましてや「自由度があるから良い」と言われても、その文章から分かるのは「とりあえずこのソフトを誉めようとしているんだな」ということだけだ。何でもできるゲームなどないし、何もできない(しない)ゲームもない。何ができ、それにどういう意味があるのか。何ができず、それにどんな理由があるのか。そこを語れないと、中身がない。まぁ、簡単に言ってしまえば書き手の表現力がないということなのだけどもー。


 とか何とか、気分が盛り上がったもんだから自分のことを棚の上に放りまくって偉そうなことずらずら書いたりするわけだが、今ふと我に返ってしまったのでこれでやめとく。うぅむ。このニュースを取り上げたのは、こんな話がしたかったからじゃないんだがなぁ。どうしてこうなったのかしら。